10月15日(土)岡本眞君が会長を務める大阪達徳会総会が開催されました。この中でビデオ「甦れ!吉之進」が上映され、渡邉信和君が挨拶しました。

 参加者の中に産経新聞の記者がおられ、これらを目にして吉之進を記事にしたいと渡邉君にインタビューしました。

 その記事が同25日夕刊に掲載されたのでその写真をこのページに搭載します。ご覧下さい。

 このことは、大石吉之進とその会の活動が注目された証です。引き続きご支援ください。

 

豊岡バツグマーケツト+スイーツイベントに人集う!

10月最終の日曜日、秋晴れの中、豊岡卸センターにおいて鞄とお菓子のマーケツトが開催された。出店したバツクブースは16社、スイーツブースはコロナの

影響もあるのか?控えめな3社のみ。例年だと秋は行事がめじろ押しであるが、

コロナの影響でイベントがほとんど中止のこともあってか、朝から市民が多数

押し掛けた。観察すると旅行用のキヤリーバツクを購入する客が目立っていた。

久々の賑わいを見た。人が集まれば、物が動く、そしてお金が動く、経済はそんな簡単な理屈と感じた。

 

 

米軍所沢通信基地は所沢市の中心部に位置し、97ヘクタールもの面積を有している。

米空軍の基地である横田基地の第5空軍第374空輸航空団に所属する送信基地であり、横田基地と米軍航空機や艦船との通信業務を行っている。

基地は何の音もしない本当に静かな(一見とても平和な)施設で、地上は主にアンテナ群で、地下に主要な設備がある。

無指向性(全方向性)アンテナは

モノコーンアンテナ 9基

スパイラルアンテナ 2基

コニカルモノポールアンテナ 2基

HTOアンテナ 3基

HOBA(ホバ)アンテナ 2基

指向性アンテナは

LP(ログペリオディック)アンテナ 6基

が設置されている。

 

所沢通信基地周辺図:

基地を東西に横断する東西連絡道路の位置がよく分かる。

 

写真 1:

所沢通信基地の北側からの写真。

正面奥に並木通り団地が見える。

 

写真 2:

手前がHOBA(ホバ)アンテナ、4本の柱の高さが約36mある。

左奥に見えるのがLP(ログペリオディック)アンテナ、高さが約28mある。

 

写真 3:

東西連絡道路用地の返還が合意。

2020年3月28日に東西連絡道路が開通した。

 

周囲には、住宅・団地だけでなく、保育園、小学校、中学校、高校、防衛医科大学校・病院もある。

アメリカ合衆国大統領もしくは国防長官などから核兵器攻撃実施部隊への「緊急行動命令」を米本土から遠隔操作で伝達可能にする近代化計画がある。

この基地は紛争が起きた時、真っ先に攻撃される可能性が高い。

日本の米軍基地の70%が沖縄県で 、東京都 5%、埼玉県 0.8%(所沢通信施設、大和田通信所他)、兵庫県 0%(伊丹駐屯地は自衛隊駐屯地で米軍一時使用施設)という状態だ。

まだまだ日本国内に駐留(占領)する米軍の規模は大きい。

 

日本の空もまだ返還されていない。

「横田空域」は東京都にある在日米軍横田基地や神奈川県の米海軍厚木基地に離着陸する米軍機などを管制する空域として米軍が管理している。

実に東京、埼玉、群馬、栃木、神奈川、福島、新潟、長野、山梨、静岡の1都9県にまたがっている。(最低で高度2450m、最高で7000m)

これが独立国日本の現状である。(小山記・撮影)

ショスタコーヴィチのワルツNo. 2

この曲は日本ではあまり知られていませんが、海外(アメリカ、ヨーロッパ他)ではポピュラーです。

ワルツそのものが日本では生活感が無いからでしょう。

アルトサックスのソロで始まる3~4分の短いオーケストラの曲ですが、とても印象的なメロディーです。

映画監督スタンリー・キューブリックの遺作 Eyes Wide Shut(アイズ ワイド シャット)

 [1999年、主演はトム・クルーズとニコール・キッドマン、(成人映画扱い)]

のオープニングタイトルに流れているのが、この曲です。

実はこの曲、近年まで「ジャズ組曲 第2番」の中の曲とされていたのですが、「ステージ・オーケストラのための組曲」第7曲の第2ワルツでした。

オーケストラだけでなく、ピアノ、チェロなどに編曲して演奏されています。

「YouTube」内で「Shostakovich Waltz 2」とか、「ショスタコーヴィチのワルツ」で検索するとたくさん出てきます。

ぜひ聴いてみてください。(小山記)

豊岡の歴史を知る史料・文化財などが多数展示されている、豊岡市立歴史博物館を訪ねた。「但馬国分寺跡・発掘調査の新発見!」の史料が現在展示されていた。国分寺とは、奈良時代の741年(天平13)に出された、聖武天皇の勅命によって、全国60あまりの国々に建立された寺院です。

但馬国分寺の建立された付近には国府が移転し、当時は但馬の政治・文化の中心地となっていたようです。コロナで延期になっていた展示解説<10月16日>・講演会<10月23日>・見学会<10月9日>が開催されます。

塔の礎石などが残る但馬国分寺跡の近所には木多見幸一君の住まいがあります。

皆さん一度足を運んでみてください。

 

極北に消ゆ

今年の2月に植村直己さんの「植村直己の会」(明治大学山岳部炉辺会)による捜索のことは掲示板に書いた。

マッキンリー(現デナリ)登頂に関しては

1970年8月26日 に単独初登頂。世界初の五大陸最高峰登頂。

1984年2月12日 に冬季単独初登頂。2月12日は彼の誕生日だった。下山時に遭難。

マッキンリーは本当に厳しい山である。

1989年2月23日 には冬季登頂に挑んだ山田昇、小松幸三、三枝照雄が遭難死している。

植村直己さんは生きておられたら80歳である。

会うことはなかったが、一度はお話してみたかった。

写真1 捜索活動の中間報告に代えて炉辺会の会報が送られてきた。

写真2 第2次捜索隊の後に冊子が送られてきた。

この本の中の写真については、勝手にネットに上げるのは著作権の関係上やめておきます。

表紙の写真には、植村さんがマッキンリー(現デナリ)山頂に残した日の丸と千切れた星条旗が写っている。

「文教府に絵本 子ども笑顔」の新聞記事に久々に但馬文教府を訪れた。

但馬に文化サロンとして昭和38年に設立され、生涯学習・芸術文化活動の拠点

として利用されている。毎年開催されている文教府夏期大学もコロナ禍で今年は中止となったが、秋の豊岡市展がコロナの予防接種で豊岡市の総合体育館が利用出来ない為、文教府のホールで開催予定との職員の方の話。

文教府入り口に坂本勝<さかもとまさる>元兵庫県知事の歌碑があった。坂本知事は在任中、瀬戸内海沿岸地域に比べて発展が遅れていた内陸部や北部の振興に尽力し、「文人知事」として親しまれた。この但馬文教府も坂本知事に尽力のお陰だと聞いたことがある。伊藤博文が初代の兵庫県知事・・・・36代坂本知事以降金井・坂井・貝原・井戸知事と継承されているが、斎藤知事がこれまでに増して但馬に目を向けてもらうことを期待するばかりである。

景勝地を楽しみながら歩く山陰海岸ジオパークトレイル。

「トレイル」とは森林や原野、里山などにある「歩くための道」のこと。こうした道を、歩く速さで旅するのがトレイルです。バツクパツクを背負えば、車の

スピードでは見えなかった風景や歴史、文化をじっくりと感じ取ることが出来ます。JRの電化が城崎温泉駅までで終わり、それから先の山陰腺、竹野や香住などに行く観光客は少なくなっています。しかし、車で山陰海岸道路を通ると日本海の景色はとても綺麗です。このジオパークの魅力あるコースをポイント付与する

アイデア/キヤンペーンが紹介されています。子供の時に当時のSLに乗り、竹野海水浴場に泳ぎに連れて行ってもらった記憶が懐かしく思い出されます。

但馬の100年という写真集がこの12月下旬に発刊されるとのこと。

その宣伝のチラシに春まつりで賑わう生田通<昭和40年>の古い写真ー一番下

が出ていた。昭和40年というと我々が高校2年生の時。春まつりは商店まつり

とも言われて、豊岡小学校の運動場に沢山の店が出ていた記憶がある。

今日、午後5時過ぎ、写真を撮った生田通<同じ場所から>・駅通り・元町通り・宵田町通り・豊田町通りである。いずれもまつりでないにせよ、人通り少なく、さみしい豊岡の街中である。

 

このトピックスコーナーは当面、東京の小山彰夫くんと豊岡の渡邉が担当します。18期生の方ならどなたでも気軽に投稿してください。投稿の仕方、パスワードなどは小山・渡邉までご連絡いただくと有難いです。

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所沢航空記念公園(私の散歩コース)

「日本の航空発祥の地」として知られ、名称の由来となっています。

当公園は、総面積50.2ha、戦前の1911年開設の日本で最初の飛行場である所沢飛行場の跡地を利用して作られた公園です。

春には桜がとてもきれいで、花見に最適です。1985年に公園の近くに引っ越してきました。

当時は公園から富士山がよく見えましたが、今はタワーマンションが何棟も建って全く見えなくなりました。

写真1は公園の全体図です。所沢飛行場開設当初の(日本初の)滑走路の痕跡はあまりはっきりわかりません。

写真2はC-46A輸送機(天馬)でアメリカのカーチス・ライト社製です。

写真3はYS-11で、航空公園駅(西武)東口駅前広場に展示されています。

写真4は木村・徳田両中尉記念塔で、1913年日本で最初の航空機死亡事故が発生、その犠牲者の追悼の慰霊碑です。

豊高ぶらり散歩

今日は私事で恐縮ながら、父の十七回忌、菩提寺である元町の光行寺の法要の帰りに、父が昭和24年から55年に渡り、豊高の定時制で教鞭を取った我が母校に寄ってみました。改めて達徳会館西側に静かに佇む石碑に肉太で雄渾に書かれた「和魂」の文字に心を打たれた。

開校から120年以上に及ぶ風雪に耐え、豊高の移り変わりをつぶさに見つめて来たこの和魂碑・・・・・

ここに豊高の教育方針の源流が脈々と流れ、豊高の歴史と伝統とを創設以来、豊高に集う者に無言のうちに伝えて来ているといえる。

明治31年1月、富田仙助、西垣勘次郎・滝田清兵衛の三氏の尽力によって建立されたこの和魂碑は聖徳太子の「和を似って貴しと為す」との精神を基本に踏まえている。和魂碑の裏面には「夫れ和魂は、我が国民の元気の由る所にして、また、

わが校の教義の本ずく所なれば、即ち此の碑の建つ所以知るべきなり・・・・

他日学問益々揚り、済済たる多士雲の如くなりんば、皆比石根より蒸出するなり」とある。まさに骨太い明治人士の心意気が伝わって来る。

兵庫県豊岡尋常中学校綱領は校是ー和魂の発揚、綱領ー誠実・剛毅・宏大 

教規ー校規を遵守スルコト・師命に順徒スルコト・礼儀ヲ重ンズルコト・勤労ヲ

辞セザルコト・質素ヲ尚ブコト。

和魂碑の周りに植樹されているいる木・学問の木ー楷の木やニュートンのリンゴの木などがあつた。又4枚の写真は父が所有していた昭和47年10月4日の火災の時の写真・下右の写真・焼け跡の校地に建つ和魂碑。我々の在学時にはこの位置にあり昭和51年7月に現在の位置に移転した。あらゆる災難にも生き延びてきた

この和魂の碑の如く、生きて行きたいものである。

赤い花なら曼殊沙華、この花を見ると秋を感じますね。

朝来市山東町の諏訪神社、よおど温泉近くの水車小屋、よおどダム。

この彼岸花は全ての部分で毒のある花だそうです。田んぼのあぜ道や水路に咲き

その毒がモグラやネズミを除去すると言われていますが?

豊岡の偉人、中江種造翁は1846年(弘化3年)但馬国豊岡藩の下級武士として市内京町に生まれ(旧姓河本・豊岡藩士中江家の養子になる)藩警備役のかたわら火砲技術や数学・測量・理化学も学ぶ。明治新政府より、「貨幣司」(造幣局の前身)の命を受け、そこで身につけた金属分析技術をもって鉱山司になり、但馬国(現朝来市)の生野銀山の再興の職につく。・・・・・・その後古河財閥を興す礎となり「鉱山王」と呼ばれた。

又郷里・豊岡での産業振興や人材育成にも力を入れ、銀行・製糸工場・煉瓦工場などの経営にも関わり、1906年(明治39年)育英基金「中江済学会」を創設し、学者・弁護士・医師など多くの人材を育成した。又豊岡市水道建設費当時のお金で38万円<今のお金で推定2億円>を寄付、その功績を称え、寿公園・ロータリーに銅像が建立されている。

市内妙楽寺にある現カトリック教会は中江種造の別荘として、但馬に現存する

数少ない本格的な洋館建築で県内でも希な大正期の木造洋館として昭和26年まで

使われた後、豊岡市に譲渡され、その翌年にカトリック豊岡教会の所有となって

現在に至っている。先人の功を讃えて展示館としてでも残す知恵はなかったのであろうか?いろいろ事情があったとは思うが、宗教団体に売却してしまうなど甚だ残念な話である。

 

これは新しい豊岡市の市章です。平成の大合併が実施されてから16年<平成17年4月1日>経過しました。2001年から20年に渡り、市長職を続投していた中貝市長が今年春の選挙に敗れ、新市長に交替しました。来月は市議選が実施されますが、これまでになく新人が多く立候補するような話を聞いています。以前に東京の足達君が閑散とした駅通りの事を憂いていましたが、写真を掲載するのも気の引けるような、人通りのない、シャッターが閉まった、ゴーストタウンのような駅通りを見るにつけ、何とか考えないとと思う毎日です。

さて,新豊岡市章についてですが、文化、自然豊かな6つの市町が統合し、新「豊岡市」が誕生することにちなみ、豊岡市の「と」の字をベースに。6つの市町が一つになり、未来に伸びて行く願いを込め、活気に満ちた「6つのライン」で表現されています。青色は明るい未来の象徴です。

この市章は公募によるものですが、これをデザインされた人は愛知県瀬戸市の船田善弘さん、余談ですが豊岡高校18期生3年8ホームの浅岡(田中)貞子さんのご親戚<姪御さんのご主人>だとのことです。縁がありますね。

 

出石の町中の川面にミズアオイ<雨久花>が咲いていました。

ミズアオイは沼地に自生。葉はハート型。夏から秋、花茎を立てて紫色の六弁花をつける。かっては水田などに広く分布したが、除草剤の散布や護岸のコンクリート工事などで減少した。出石高校の生徒や地元の有志らが、保護活動に取り組み、見事に再生させたとの話。

森はな文学 心温めて

やわらかな地元の言葉で人々の心温まる交流を描いた「じろはったん」で知られる朝来市和田山町出身の児童文学作家・森はなは和田山町宮田で出生。地元の大蔵小など32年間の教員生活を経て、退職後は本格的に執筆を始めた。人や自然、ふるさとを「いとおしむ心」を持ち続け、但馬を舞台に優しく温かい物語を紡ぎだした。

八代オクラ

日高町八代地区で古くから栽培されてきた伝統野菜、一般的なオクラは5角形だが、八代オクラは10角形。肉厚で粘りが強い、栄養価が高く夏バテ防止効果が

大とのこと。10月頃まで収穫出来て約1500本を大阪の料亭を中心に出荷。

このオクラのことは、奈良の井上実君からの八代オクラの種についての問い合わせから知った。ネツトで調べてみると、18期の赤坂君が関わっていることがわかり、友人の田村君に聞いてみると、彼が3年前から地域コミュニテイの地域振興の活動としてリードして来たとの話。ブランドを守る為に種を家庭菜園での栽培を確約したうえで入手出来るとのこと、井上君はもう入手したのだろうか?

 

「砂防の父」赤木正雄は日本の農学博士・政治家。日本において砂防の重要さを

いち早く説いた人物です。豊岡市引野に生まれ、豊岡中学<6期生・明治39年卆> 

校を経て第一高等学校に進学、一高校長の新渡戸稲造から林学の中でも重要な砂防の立ち遅れを指導されている。東京帝国大学農学部林学科を卆業する。内務省

治水局に入省、吉野川、信濃川、木津川などの治水工事を指揮する傍ら、オーストリアに留学して治水・砂防技術を学ぶ。・・・・・・

戦後貴族員議員に勅選、第1回参議院議員選挙で兵庫県選挙区から当選し、第3次吉田茂内閣建設政務次官歴任。赤木正雄の銅像が東京の砂防会館と豊岡市の塩津の円山川沿いに建立されている。1971年(昭和46年)には文化勲章を受章されています。豊岡高校18期の鈴木(旧姓赤木)公子さんは身内です。

 

豊岡市の偉人、仲田光成(なかたこうせい)は透明清澄な仲田流かな書展を確立した人です。近代仮名書道の第一人者である尾上紫舟の高弟、若くして古典を究め

鋭い線条による空間構成で独自の大字仮名を確立した。また、平安古筆を基礎に

現在の美意識で表現した典雅な細字作品においても「仲田流」と称され一時代を

画しました。竹野町の出身。1946年学習院講師を拝命。1964年常陸宮妃殿下のお后教育を担当。継続して10年間お稽古を担当。皇后陛下が皇太子妃当時,月並歌会の短冊手本を20年間作成。学習院を70歳で定年退職。2003年7月に満104歳で逝去。

かな書の普及と地域文化高揚のため、「仲田光成記念第20回全国かな書展が

令和2年10月20日~23日まで豊岡市総合体育館で」開催されました。

豊岡市役所正面の碑がいつ建立されたかはわかりませんが、改めてその偉業を認識しました。竹野の笹山君に聞くと竹野町松本の出身で町内にも何カ所か碑が

建つているとのこと。

 

出石町のシンボル「辰鼓楼」(しんころう)は今年創建150周年、時計の設置から140年の節目の年、これまで「日本最古」の時計台と思われていたが、札幌時計台に次ぐ「2番目」であることがNPO法人但馬国出石観光協会の発表で明らかになった。この時計が寄贈された経緯が

素晴らしく、池口忠恕という医師が大病を患った際、出石の人々が熱心に看病したらしい。恩義を感じた池口さんが当時高価だった時計を櫓に寄贈したという美談が伝えられています、

 

立野の公園のSL機関車と遊具

旧市民体育館の北側に市民憩いの公園が整備されていました。

懐かしい蒸気機関車は子供の頃の思い出が!遊具・グランドは日曜日

早朝より、子供と高齢者が集う場に利用されていました。

 

 

カニ🦀シーズン到来!

香住ガニの愛称で知られるベニズワイガニの初競りが香住漁港で行われました。津居山漁港はこの時期はカニ漁はしないようです。現在兵庫県

では緊急事態宣言下にあり、宴会や城崎などの宿泊客は激減しています。昨年もカニが売れなくて処理に困ったとの話を伝え聞いています。

コロナが治まらないことにはどうしようもないようです。

 

使用済みの漁網を使った「豊岡鞄」を開発!

日本財団の支援で設立された「アライアンス・フオー・ザ・ブルー」によるプロジェクトの一環。海洋プラスチックごみの減少に向け、漁網の

再利用としてスタート。原料は北海道の刺し網魚で使われた漁網で加熱した後、細かく砕いて粒状に加工。別の会社が糸状にした上で鞄の素材となるナイロンの布を製造している。ビジネスタイプ・トートバッグ

ボストンバッグやこども向けのスクールバッグも販売予定。

芸術文化観光専門職大学は2021年4月に開学した公立専門職大学です。

初年度、志願者数621名に対して91名。<男子16名・女子75名>

兵庫県内18名・兵庫県外73名。 ー7倍の競争率を乗り越えて来ただけに職員の話によると優秀な学生が多いとのことです。現在新型コロナで見学は出来ませんので大学のパンフレット等で紹介します。

 



№3(2014.3.16)

但馬の春を告げる出石の初午・出石のにぎわい

江戸時代、旧暦2月の最初の牛の日だけ出石城内の稲荷神社に庶民の

参拝が許されたことに由来する祭。但馬・丹波・丹後の三たんで最も

にぎわう祭とされる。(読売新聞)最近の日曜日の出石の町は人、人

、人で活気が湧いています。通りがガランとした豊岡の町に比べて

同じ豊岡市かと目を疑います。店が立ち並び、またソバ屋だけでなく、

いろいろな店が出来ています。これらの盛り上がりも地元住民の地道な努力によるものと思っています。豊岡も頑張れ!

№2(2014.2.23)

大型店の進出が目立つ豊岡

今、日本の地方はどこでも地元商店街がさびれて行く反面、大店舗が

日新月歩で増えている現状です。豊岡でも(ここでは旧豊岡市内)

ご多聞に漏れず、その傾向が顕著です。電気店(上新電気・山田電気・EDIONなど・・)雑貨店(ナフコ・ストック・ジャパン・・)また、ビジネスホテルも結講利用があるらしく、駅周辺にはいくつか並んでいましたが、生田通り、千代田町の元但馬酒造の跡地に2月末に大型のビジネスホテル豊岡グリーンホテルが竣工します。<シングル:5,000円>人口が次第に減少する中(1市5町で約87,000人)まさに激しい競争が展開されています。

№1.新しい市役所(新庁舎)2014.2.18

  平成17年の1市5町合併以前から検討課題であった豊岡市の新庁舎が

  昨年のお盆からスタートしました。まだ正面広場や庁舎の裏側(北)  

  又元労働会館などの跡地の駐車場予定地は目下、建設工事中です。

  旧市役所を曳家で移動した、稽古堂(京極氏の命名)は1階がホール

  2階が議場、3階がホールとしてリニューアルして利用されています

  新しい豊岡市の市章はまだ一般には馴染みがないものの、公募で決ま

  った、なかなか斬新なものです。(18期の浅岡(旧姓田中)貞子さ 

  んのご親戚の方のデザイン)我々の子供の時からの◇(京極藩主の家

  紋)にTの組み合わさった市章が懐かしく感じます。

  市歌も新しく変わりましたが、歌い馴れた「朝は明けたり、さやけき

  来日嶺・・・・・・」がいいですね。すべて新しいものばかりが万能

  でなく、スクラップアンドビルトのみの考えでは駄目で、やはり長年

  積み重なって、築かれてきた歴史は軽んじてはいけない、大切にしな

  ければならないものと思っています。  

議場

新しい市章

市役所内部