高校時代、意味も考えずなんとなしに歌っていた校歌。
校歌の制定の経過と、わかりやすい解説が「新入生のための学習のしおり」に載っていました。どんな校歌であったのか、参考になればと思い
記載しました。
<制定の経過>
*昭和23年学制の変革があり、新制豊岡高等学校が発足。
*新しい校歌の制定を求める動きが昭和24年夏現れた。
*昭和25年校歌募集を、広く一般から公募したが入選作なし。
*昭和26年本校の国語科を中心に作詞に取り組むが完成を見ず。
*昭和27年第3次校歌制定委員会が編成され、豊中9期生で元豊岡
中学校長岡垣徹治氏に作詞を、豊中22期生の元東京音楽学校教授
木下保氏に作曲を委嘱する。
*昭和28年待望の校歌が完成。2月11日に盛大な校歌制定発表会が
行われた。
校 歌
作詞 岡垣 徹治
作曲 木下 保
(1) 群山の秀 (ほ)に湧く雲と 諸人のここに学びて かぐわし
き跡こそ残せわれら今きほいて集う
解説
来日の岳、大岡山、蘇武が岳さらに妙見、鉢伏、氷ノ山そして床尾山、
これらの群山のひときわ目立つところには、八雲が生じ湧き立ってい
る。学問に志を立てた幾多の俊才が但馬路の末々から集まって、神武山
麓の学び舎にあそんだのは遠く明治29年以来だという。大石りく女の
婦徳をかがみにと望んだ幾多の才媛が山王山麓の学び舎に集まったのは
明治42年のことだと伝える。
多くの俊秀は、知・仁・勇の3徳を体得し、国家有為の人材として各界
にかっ歩している。おおくの才媛は貞淑温雅なたちばなの美花と咲い
て、まことにかぐわしい範を残している。
先人雄飛の姿を仰ぎ見て、われら今争ってここに集い来たのである。
(2) 露霜 (つゆじも)に幾世(いくよ)か経たる 深緑窓に映ろふ
苔むせる碑(いしぶみ)のかげ 尋 (と)め得たり真澄の知恵を
解説
雨と露にめぐまれ、霜と雪に堪えてから90有余年。歳月は流れ人は変
わり移った。先人がともに喜び悲しみ学んだ窓辺には、緑樹の色がいよ
いよ深く映っているし、倶に書を読み人生を語った和魂の碑の陰には、
いつしかゆかしい緑苔が蒸生っしている。
ここらの俊秀才媛が知恵の鏡をみがき、そして磨き終わったことか。
われらもまた遺風をしたって、真澄の深し求めよう。
(3)ああ友よ眼 (まなこ)あぐれば はるかにも見さくる北に
新世(あらたよ)の希望 (のぞみ)の潮(うしお)とよもして鳴
るにあらずや
解説
伝統に輝くこの学舎に争い集まり、真澄の知恵を尋ね求め、そしてさぐ
り得たわれらが学友よ、今こそ眼を大きく見ひらき眉を高くあげて、
はるか遠く北の海を想いみて、さとき耳をときすませ。 新生日本の国づ
くりの希望は波涛となってとどろき響いている。
文化国家の実現を期し、自由と平和を愛する人間性の啓発と学問の進歩
を念願せよと鳴り渡っている。
(4) ほむらなし理想 (おもい)燃ゆるに さ霧さへ雪さへ晴れぬ
讃へなむわが豊高の とこしへにいよよ幸(さきは) ふ
解説
真理を求め、正義を貫き、平和を愛し、自律的精神を確立し、心身を
鍛えんとするわれらの理想は赤々と焔のごとく燃えあがる。
ほのほの如きわれらの行きと理想はこの大地を暗くする霧をさえ雪をさ
え追いやり明るく晴れわたっている。
この学園に集り、高い理想にまい進するものの頭上に栄光は輝く。
豊岡高校のこの学風は永遠にほめたたえられるであろう。
秀に湧く雲と 目立ち秀でたところ、つまり山頂とか稜線の辺から湧
き立つ雲のごとく。
跡こそ残せ 立派な学業の実績をとどめている。
窓に映ろふ 窓に映り続けている学舎で。
見さくる北に 遠く眼を北に放ち見渡すこと。
とよもして なりひびかすこと。
ほむらなし 炎の如く・・・燃え上がるがために。
いよよ幸ふ いやまし幸せになる豊高を讃えよう。